1.「贈り物の効用」
プレゼントについて。基本的に世間から贈れば喜ばれるものというイメージが定着しているが、本来的には相手の立場に立って考えることが必要な物であり非常に難しい。下記抜粋だが、想像力が欠けるプレゼントは友人を失うこともある。
相手のことを考えて行動できる人は大切な人で有り続けるが、「びっくりさせる」→「ギャップで喜ずはず」というようなマスメディアが報じているような一般全てに通用するかのような考え方はプレゼントに限らず通用しないといけない。マスメディアの報じる生き方は楽だが本質的ではないということだろう。個々それぞれに対しての最適な事は何か?を考え続けるのは大変な事だがそれしか信頼を築いていく事は出来ないだろう。
“プレゼント どういったものを贈ると喜んでもらえるか正解はない。名前も顔も思い出せない人からのプレゼントは鬱陶しいし、快く思っていない人からのプレゼントは全く嬉しくない。
逆に大好きで大切にしたい人からのプレゼントだったら、どんなにつまらないものでも大事にしようと思う。だがそういう人は好みを知っているのでつまらないものは選ばない。
勝手な思い込みでプレゼントを選ぶと、長年の友人を失うこともある。”
2.「クールジャパンと偏愛」
偏愛が文化を切り開いて来たが、政府が主導するクールジャパンは偏愛がないため、鋭さがなく平板なものになってしまう。そうすると文化は広まらないという矛盾。これは他場面でも多く感じられる。大企業が立ち上げる新規事業に大企業の役員が多数参加するとみんなが納得する平坦なものになってしまう。危機感を持っているベンチャーとは次第に圧倒的な差になるだろう。また、受益側としても「政府」「大企業」という時点で無意識的に安心感と同時に鋭さを失った、四角く丸いものとして受け止める。この様な時代だからこそ、偏愛を感じる物を魅力的に感じるのではないだろうか。自分の中の偏愛を大切にして、人の偏愛を応援できる人間でありたい。
以下抜粋
“文化をプロデュースする時には偏愛が必要になる。政府は絶対に文化的創造を主導出来ない。政治の資金は税金なので、偏愛とは無縁だ。偏愛は欠落と過剰の隙間に発生する。この世界にも自分にも大切な何かが決定的に不足しているという誇大的妄想的な思いと、その欠落感を埋めようとする果てしなく過剰な思いを交錯させながら、プロデューサーは市場に挑戦する。最近、日本の文化市場から偏愛が消えつつあるように感じる。あらゆる文化がルーティン化している気がする。”
3.「企業の不祥事」
最近不動産業界での不祥事「書類の改ざん」についても同じことが考えられるが、なぜ悪いことだと思っていてもやってしまうのだろうか。慣習や、上司の命令など法に反しているが自分は悪いことをする為の言い訳が有るという状態が出来ている状態が一番の問題だろう。現に不動産業界でも「書類の改ざん」をやっている業者は山ほどいて今回の件はその一角に過ぎないように。資本主義的の「高い報酬を貰う」=「高い評価を受けている」という状態が根付いていることが不正をする事の原因かと思っていた。今後評価経済と呼ばれるお金以外の評価が付与されるとしても、人と何かをして生きていく以上「ほめられたい」「けなされたくない」という根本が変わらないのであれば不正をして評価を得るという構造は無くなることはないだろう。そう考えると組織で不正を防ぐにはどうしたらいいのだろうか?会社への真の意味で思い入れや、不正をして利益を得るより報告をした方が「褒められる」仕組みを作る事が重要になってくるだろう。
以下抜粋
”わたしたちは「ほめられたい」「けなされたくない」という本質的な欲求を持っている。粉飾決算する人・組織は、この裏の欲求に突き動かされて、つい手を染めてしまうのだとわたしは個人的に考えている。どんなにコーポレートガバナンスが強化されても「ほめられたい」「けなされたくない」という私たちの根源的な欲求を抑え込むのは不可能だ。その欲求は、経済的・社会的成功の大きな原動力にもなっていて、人類がそれを失うと、ひょっとしたらあらゆる成長や進歩、それに芸術や文学などの創造的な仕事も同時に消滅するかもしれない。”
4.「日本が誇れるもの」
パッと思いつくのは災害を乗り越えてきた事。高度経済成長を遂げた事が思い浮かぶが自分が生まれてからのこの30数年間で日本が誇れる事はあまり思い浮かばない。最近のメディアでも自分の周りでも日本の優位性を述べる人が多いが、生きていないのでわからないが高度経済成長の時はそんな事は言ってなかったのではないかと思う。個人と同じで誇りが失われかけている時に、誇りを取り戻そうとしているのと同じで、今まさに失われかけているのではないかと思われる。この文章を最初に読んだ時、誇りとは内に秘める事が大事だという考えはどこか古い様な気がした。民間で働いていると成果を大きく取り上げてもらう事が次の更に大きな仕事に繋がるから内に秘める事のメリットが分からないと思った。しかし、そんな事を言っているのではないだろう。なんとなくわかっている。映画「グラディエーター」の主人公の様な一度は死んだつもりで誇りのために戦う姿は言葉がなくても感動を与える事が出来る。もちろん人の為ではなく自分の為にやっているだけなのだが、そこに憧れや強さ、そして誇りを感じる。
以下抜粋
“「ものづくり」という言葉が流通するようになってから、日本の製造業は次第に優位性を失っていった。高度経済成長期には「ものづくり」という言葉を聞いた事がなかった。言葉は、それが意味する概念が希薄になり、優位性が失われたあとで、渇望の象徴として流行ることがある、個人の誇りも、国家的な誇りも、静かに胸に秘めて、困難に立ち向かう時の糧とすべきであって、数え上げ、並べ上げて安心したり自慢したりするようなものではない。言葉に出した瞬間に、消えてしまうものがある。誇りもそのひとつかもしれない。”
5.「忠誠心と信頼」
最近のTVでも高度経済成長時代には忠誠心があって、今は無くなった。だからすぐ辞めるし部下は動かないと悩む上司が増えている。という伝え方がされている。この本で一貫して伝えられている「信頼」という価値が忠誠心でなく必要だ。忠誠心は対等な関係ではなく、信頼は対等な関係の上で成立していると思う。企業だけでなく、人付き合いで信頼関係を作る事ができているか。意識して生きていく事が必要なのだろう。
“日本の高度成長と会社への忠誠心はなんら関係がない。最大の要因は非常に大きな需要が存在したことだと、個人的にそう思っている。会社への忠誠心など、必要ないどころか、弊害しか生まない。会社・経営者と従業員の間に必要なのは、「信頼」であって、「忠誠心」ではない。自社の商品やサービスに誇りを持つ事ができて、しかも解雇される不安がなく、毎月決まった日に給与が出て、さらに毎年昇給がある時に「信頼」が生まれる。そういった信頼が醸成されている会社だけが、生き残る」
6. 「情報の取捨選択」
この文を読んで、自分が必要な情報に優先順位をつけてまとめられていない事に気づいた。まずは書き出し、Google Calendarに登録をする。膨大な情報の中で何が大切なのか。本田圭佑は分かっていそうな気がした。
”自分がどんな情報を必要としているかが分かれば、どんなに膨大な情報が有っても、迷うことはない。「情報が多すぎる」というのは、わかっていない事の言い訳としてはとても都合が良い”
7.「小さな経済圏について」
コミュニケーションが成立するという前提で会話をすることは楽だが、本質に届かずに曖昧にして終わる。結果目的を達せない。ということが多い。信頼を作るということが相手とのコミュニケーションを成立させるための重要なことだが、その努力を怠って空気を読もうとすると何も進まないという事が組織にいると頻発する。コミュニケーションが成立していないことを前提として自らの利益を優先せず、1.理念の共有、2.信頼の構築をしていくしかコミュニケーションは成立しないと思い行動する事が大切だ。
“できうる限り情報を集めて分析し、徹底して相手国の立場に立って想像力を巡らす、というのは「空気を読む」という意味合いからもっとも遠いものだ。「空気を読む」のが容易というか、可能かも知れないのは、コミュニケーションする相手の背景に、自分と「同質」な文化と考え方がある場合だけだと思う。
生き残るためには、強者に頼ることなく、自らの利益を優先せず、理念を共有し、信頼に基づいた「共生」が必要だということだ。”
8.「努力という才能」
人から努力しろ、と言われるほど矛盾したことはない。練習し続ける為には何が必要なのだろう。練習の必要性と上手くなっている自分を想像する時に、練習を続けるという行為になるのだろう。努力を続ける為には、自分が楽しみで納得出来る目標がを持ち続けられる事が才能でもあるのだろう。
“努力を続けることが出来る、それが才能で、それ以外にはない。
練習場に着くと、中田英寿が一人、ずぶ濡れになりながら、フリーキックの練習をしていた。他に誰もいなかった。こんな雨だしすぐ終わるだろうと思いながら見ていたが、中田は、暗くなってボールが見えなくなるまで、蹴り続けた。どんな人間でもこれだけ練習したら、きっとそれなりの選手になるだろう。これだけの練習をできるというのが才能なんだ。」わたしもずぶ濡れになり、寒かったが、とても幸福な時間だったを才能というのがなんなのか、はっきりとわかった瞬間でもあった。”
9.「大企業病を防ぐもの」
年を取っていくと、転職が難しいと言われているが、意味が無い、と思っているものを避ける力が強まる、という事は凄く論理にかなっている気がする。今は必要性を感じくても資本主義の世界でやれている事を、論理的にやる必要性が感じずやらないとなるのだろう。これは悪いことでもなんでも無いので、必要性が感じることを探すという行為の大切さにどれだけ早く、また年を取っても持ち続けられるかが大切な事だと感じた。精神と経済を支えているものが無いと人は楽して何もしなくなるのだろう。経済を支えているだけの仕事をしている人は面倒なことをしない。精神を支えていることには金銭を払ってでも体験しに行くことが多い。精神を支えている事に経済を支えている事が加わるのか、経済を支えている事が精神を支える事でもある場合に人は死ぬほど面倒なことをするのだろう。そうでも無い事をやるのは人として非合理的で生存するためには必要のない機能なのだろう。
“年を取って心身ともにパワーが低下するのは当然で、その分、情報・知識の蓄積は増えているので、面倒な事は本能的に回避しようとする。ただし、例外もある。取り組んでいる作品に必要なら、死ぬほど面倒だと思いながら、全く知らない人に自らコンタクトを取り、会って話を聞く。それは、作品が、わたしの精神と経済を支えているからだ。最優先事項を見失った時、徴候が現れ、やがて「病」として顕在化する。”
10.「人を育てる」
人を育てる、という言葉は意味が無いとずっと思っていたが曖昧で、一人一人に対して答えが無く、みんなが悩んでいる事なので使いやすい単語なので100年先までなくならないのかもしれない。自分が興味を持つことを伝えている大人はやはり面白いし惹かれるものがある。ベクトルを外に向けるのでは無く、自分へベクトルを向けて、自分が面白いと思うことを伝える事が人を育てるという事に結果的に繋がるのだろう。
“自分ができないこと、興味がないことを、子供だろうが、部下だろうが、強要しても意味がないどころか、逆効果だ。