つくばみらい市(旧伊奈町)にある間宮林蔵記念館では、100円で間宮林蔵の事を学べます。

間宮林蔵は、子供の頃から筑波山にある出世すると言われている立身窟に1人で行ったりと冒険心が強い人物だったと思われる。そして間宮林蔵は15歳の時小貝川の堰作りで、幕府の役人に活用的な堰の作り方を教え、有能さを認められて江戸に行き、伊能忠敬に測量技術を教えてもらい、サハリンが陸続きではなく島である事を発見して間宮海峡の基になった人物である。

日本全国の精度の高い地図を全て伊能忠敬が作ったイメージがあったが、北海道に関しては間宮林蔵が函館付近以外、作っていた。特に有名なのが間宮海峡という名にもなったサハリンとシベリアの間の間宮海峡。1度目はサハリンをまわることができず、2度目の挑戦で北が海に囲まれて陸続きでない事を発見した。

サハリンの旅はアイヌの人達と共に旅をしていたが途中で現地の人々に襲われたが抗戦をせず、酒と食料を渡して難を逃れたり、海峡を渡って中国大陸側のデレンという街に行ったりと、臨機応変な対応が出来、好奇心旺盛な人物であったと思われる。

間宮林蔵に北海道、サハリンの地図を作らせた時代背景として、ロシア帝国が通商を迫っていたが幕府が応じず、武力での攻撃をしてきたロシア帝国が脅威にあり地図を作りたい幕府の意図があった。ロシアの通商条約には応じず、後50年後にアメリカに通商条約を井伊直弼が応じた違いは国力の衰退が関係しているのだろうか。

伊能忠敬に比べると測量の人としては知名度は高くないが、1800年前後に未開の地を旅して国に新しい発見や、国防としての地図作成をした人物として非常に面白かった。記念館の中には、第二次世界大戦の時に刊行された間宮林蔵の雑誌も有り、様々な意味で政治的にも重要な人物として当時の日本も思っていたのだろう。

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