天草から長崎への移動は、Google mapを見る限り、船で渡るのが最短距離っぽいので、船での移動を決行。
選択肢は2つ。車を持たない徒歩、バスの旅の自分は①天草北東部の鬼池から島原に渡る船路と、②天草の北の苓北町の富岡港から長崎市へ渡る船路の2つ。
調べると長崎市内へ行きたいなら②苓北町の富岡港から渡ったほうが長崎市には早く行けるとの事だったので、②を選択。島原や雲仙岳の温泉に入りながら向かう人は①の方がおすすめ。
本渡バスセンター07:55の朝の便で天草市の北、苓北町にある富岡港へ。
1時間弱で到着。時間が有れば天草四郎が攻めた富岡城跡にも行きたかったが、あまり時間もなかったので9:15分のフェリーを待って出発。今回は冬の移動の為会えなかったが、夏にはイルカが見れることもあるという。
長崎の茂木港まで45分の移動は地獄。海が荒れていたのも有るのだろうが本はおろか、スマホを見る事も出来ない状態でガクンガクンと波を超えては落ちてを繰り返す状態。船酔いがひどい人にはお勧めが出来ない旅でした。
長崎の茂木港に降りて、目の前のバス停から長崎市内行きへのバスに乗る。こちらはSuicaが使えない為、現金での支払い。
長崎の観光スポットを半日で回ろうとするため優先順位をつけて1から7を周ることにした。
1.亀山社中 2.長崎歴史文化博物館 3.昼ごはん(ちゃんぽん) 4.長崎原爆資料館 5.平和公園 6.グラバー園 7.大浦天主堂
行きたかったがいけなかったスポットは、長崎孔子廟、出島。次回はここに行きたいと思う。
長崎駅手前で降りて、商店街の万谷町で鯨カツを食べた。ものすごくおいしい。鯨は大味のイメージが有ったが、マグロカツに近い感じでとてもおいしかった。
そのあと幣振坂という「解夏 」の舞台にも使われた坂らしいが、とてつもなくきつい。上がお墓になっていて下ってくるお婆さんもいたが、まだ続くのかという事を何度も思った。
途中でシーボルトの奥さんになった楠本タキやその娘のイネのお墓もあり、明治維新前後のころから日本人の女性は世界から人気があったのだと思った。
更に登り、登り終わった時は標高150mまで達していた。龍馬像や、龍馬のブーツ像を通り、亀山社中へ到着。
亀山社中跡は思ったより小さく、30秒ほどで回れる大きさ。龍馬から姉の乙女への手紙が面白く、文字だけでなく逆鉾を抜いたというエピソードを絵で書かれて面白かったが、他は特に覚えていない。
昼は中華大八という地元から愛されていそうな所へ。特別なおいしさというものではなく、毎日食べられる優しい味だった。
その後、長崎歴史博物館に行ったがこちらは面白かった。
特に、【朝鮮通信使 】 という朝鮮との交流では、豊臣秀吉の朝鮮出兵で関係性が悪化していたが、対馬藩が交流を続けていて、江戸時代には徳川家康の将軍就任祝いから始まり、その後の将軍後継が有る度に朝鮮から特使が来て祝いをしてくれていたとの事を初めて知った。関係性が現在では悪化しているが、その頃の交流等も知ると認識が変わるのだろうと思った。
また、江戸時代は鎖国のイメージで、それ以前はアジアを含め世界と交流がないと思っていたが、東南アジアの各場所に日本人町があったという事実も知れた。しかし、1612年のキリスト教禁制や、1633年の海外渡航禁止、5年以上海外在住の人の帰国禁止などを経て鎖国に入っていったという。山田長政という人物は、タイでアユタヤ王朝から認められ高官にまでなっていたという。一概に鎖国が悪いと言えない事もわかっているが、キリスト教の禁止や、世界を見てきた人を帰らせないという形での天下統一を江戸幕府はしていたことが、この天草から長崎の旅でわかった。
その後、原爆資料館へ。
こちらは入り口が螺旋階段になっていて、現在から下って行って1980、1960年と下っていき、1945年になると最初の部屋に入るという面白い仕掛けになっていた。
一瞬にして多くの命を奪う核爆弾による威力と、本来落す予定だった場所と違う所に落としたという事実。この原爆資料館のある近くが落された場所なのだが、当日の2時間後には救助活動が開始されていて、諫早と長崎を往復して救護活動を行っていたという活動に心が動かされた。また、資料館最後の方に、当時少女だった方のビデオメッセージが有り、防空壕で泣いていたところを助けてくれたのは朝鮮人の大人の男たちだったという。日本に強制的に連れて来られたにも関わらず、このような行動をしてくれた人たちがいた事を私は覚えておこうと思った。
その後、平和記念公園に行き、グラバー庭園、大浦天主堂と周り、夜はトルコライスを食べた。
貿易地として栄えていたこともあって、長崎は海外と日本の繋がりが日本にもたらした影響を知ることのできる面白い場所だった。